哲学に触れてみた#2
こんにちは🌟
今回のゼミは須長先生を交えてのゼミでした。
前回のゼミで、哲学は難しすぎる、、、
そういう印象だったのですが、
それは
一般的な学問=既知の知識を踏み台に新たな知識を構築する
哲学=既知の知識を揺さぶる
このような違いがあるからだと分かりました。
そして、哲学のルールとして
・自分の言葉でゆっくりと
・もう一度お願いって言ってOK
・結論を急がずに、でも答えを出さなくて良いわけではない
がありました。
あ、そっか、
そんなすぐすぐ答えの出るものじゃないのか!
一回聞いて分かることじゃないんだ!
少し安心しました😌
今回のグループワークの
お題は
問1:なぜわれわれは「あなたは差別している」と言われたくないのか
問2:差別をしたくない場合、どうすればいいか?
差別してしまっても仕方ないものなのか?
なぜ世の中では「差別はいけない」と言われているのか?
について話し合いました。
まずは問1です。
私は、差別する=いじめをするというイメージがありました。
他にも、「周りに、そういう意地悪な人と思われたくない」と、人の目を気にしたり、「差別してはダメと教育されされてきた」などがあがりました。
そこで私たちは
ここでいう「差別する」とはどのくらいのレベルなのか、疑問を持ちました。見た目で差別していると分かるぐらいなのか、心の中思うぐらいなのか、、、
Aパートでは心の中で思う差別はしょうがないよね!と書かれていました。
では、もし自分がする側ではなく、される側だったらどうでしょうか?
おそらく、仕方ないことだと思えないと思います。
つまり、される側とする側では「差別する」の基準が違ってくるのです。
なるほど。たしかにそうだと思いました。
では差別をしたくない場合、どうすればいいの?
という疑問が出ました。
差別を自分ごと化し、差別される側の情報を得るべきなのでしょうか。
少し頭の中がぐちゃぐちゃになったので、他のチームのメモを覗きに行きました。
すると
「女子サッカー」という文字に目がいきました。
たしかに、女子と男子を分ける場面は多々あります。しかしそれは差別ではなく、区別なのだと思いました。
区別とは、感情も何も含まれない状態で、選別すること。
差別とは、個人的もしくは集団的な感情に基づいて色眼鏡で区別すること。
しかし、白人と黒人を分けるのは社会的には、区別ではなく差別と言われています。
なんでだろう、?新たな疑問ができました。
そこで須永先生に、
なぜ"差別はよくない"という社会なんだろう?
という疑問を投げかけて頂きました。
うーん、考えていると
「一緒に生きていくため」という意見がでました。
たしかに、一緒にみんなが生きていくためには、差別していては、幸せな世界ではないだろうし、喧嘩が絶えない世界になると想像しました。
差別したらダメ。
分かってはいたけれど、なぜ?と思ってもすぐには答えられ疑問もあったけれど、
1人で考えるより、友達の意見を聞いて、納得したり、自分の意見が明確になったり、グループで対話すると、とても充実した時間になりました。
それではまたゼミで☻